夏目漱石「虞美人草」あらすじ、感想、豆知識など

夏目漱石 「虞美人草」 あらすじ、感想夏目漱石 作品

夏目漱石の小説「虞美人草」について書こうと思います。
※こちらの記事はネタバレを含みますので要注意です。

「虞美人草」とは?どんな小説?

朝日新聞に明治40年(1907年)の6月23日から10月29日まで連載され、単行本は春陽堂より明治41年(1908年)1月1日!!に発行されています。

「虞美人草」は、夏目漱石が教職を辞した後、朝日新聞に入社(職業作家になった)して最初に書いた長編小説で、かなり気合の入った作品になっています。その分、最初のほうは肩に力の入った漢語調?の文体が随所にあり、若干読みにくいところもありますね。

凝った文章過ぎて、思わず「う~ん…」と唸って読書スピードがかなり落ちる…。でも途中から物語のテンポが一気に加速していきます。その展開が本当に見事!

将来が期待される秀才の小野さん、才気溢れる魅惑の美女藤尾、その兄で気難しいところのある哲学者の甲野さん、実直だが外交官浪人中の宗近君、その妹糸子、小野さんの恩師(井上孤堂)の娘小夜子を中心に物語は展開していきます。

そもそも「虞美人草」とはヒナゲシの別名。以下の画像のような花です。

夏目漱石 虞美人草 ヒナゲシ

画像引用元:漱石山房記念館ブログ

漱石がこの「虞美人草」を小説のタイトルにした理由というのが、

昨夜豊隆子と森川町を散歩して草花を二鉢買つた。植木屋に何と云ふ花かと聞いて見たら虞美人草だと云ふ。折柄(おりから)小説の題に窮して、予告の時期に後れるのを気の毒に思つて居つたので、好加減(いいかげん)ながら、つい花の名を拝借して巻頭に冠(かぶ)らす事にした。

純白と深紅(しんく)と濃き紫のかたまりが逝(ゆ)く春の宵の灯影(ほかげ)に、幾重の花弁(はなびら)を皺苦茶(しわくちゃ)に畳んで、乱れながらに、鋸(のこぎり)を欺(あざむ)く粗き葉の尽くる頭(かしら)に、重きに過ぐる朶々(だだ)の冠を擡(もた)ぐる風情は、艶(えん)とは云へ、一種、妖冶(ようや)な感じがある。余の小説が此花と同じ趣を具(そな)ふるかは、作り上げて見なければ余と雖(いえど)も判じがたい。

社では予告が必要だと云ふ。予告には題が必要である。題には虞美人草が必要で―はないかも知れぬが、一寸(ちょっと)重宝であった。聊(いささ)か虞美人草の由来を述べて、虞美人草の製作に取りかゝる。

(明治40年5月28日 東京朝日新聞 「虞美人草」予告)

引用元:漱石山房記念館ブログ


漱石のタイトルのつけ方が時々いい加減なのは有名な話。しかし、主な登場人物である藤尾と漱石のいう「艶(えん)とは云へ、一種、妖冶(ようや)な感じがある」という一言にどことなくつながりを感じますね。

「虞美人草」の主な登場人物

■小野清三(主人公)…恩賜の銀時計を授かるほどの秀才、藤尾の家庭教師?、小夜子と婚約しているが藤尾に惹かれている

■甲野家
・甲野欽吾…藤尾の兄、宗近一と親友、哲学者、気難しい
・甲野藤尾(ヒロイン)…傲慢で虚栄心が強い、かなりの美人、才色兼備、小野に惹かれている、宗近一と婚約関係
・母(謎の女)…継母、藤尾の実母、打算的

■宗近家
・宗近一…甲野欽吾と親友、実直な性格、外交官浪人中、藤尾に惹かれている、藤尾と婚約関係
・宗近糸子…一の妹、欽吾の良き理解者で欽吾に惹かれている
・父…朗らかな性格、世話好き

■井上家
井上孤堂…小野の学生時代の恩師、小夜子と小野の縁談をまとめようと東京へ来る
井上小夜子…小野の許嫁、物静か、藤尾ほどでないが美人

■そのほか
浅井君…小野の友人、軽薄者

「虞美人草」のあらすじ

外交官志望で行動的な宗近一は、哲学的な思索にふける甲野欽吾と性格は違えど、仲のいい友達だった。宗近は甲野の異母妹である藤尾と婚約関係にあったが、それは亡き父たちが決めたことで、藤尾の心は英語の家庭教師である秀才・小野清三にあった。
とはいえ、その小野にも、京都での苦学時代の自分を援助してくれた恩人・井上孤堂の娘・小夜子という婚約者がいた。美しいが強い自我を持った女・藤尾は、甲野家の財産を狙う母と結託し、小野を自分のものにしようと行動を起こす。若者たちの想いは錯綜し、彼らを上野の東京勧業博覧会における大団円を経て、思わぬ悲劇に導いていく。
<参考文献:エンサイクロペディア夏目漱石より>

 

大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才小野。彼の心は、傲慢で虚栄心の強い美しい女性藤尾と、古風でもの静かな恩賜の娘小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさから抜け出すために、いったんは小夜子との縁談を断るが……。やがて、小野の抱いた打算は、藤尾を悲劇に導く。東京帝大講師をやめて朝日新聞に入社し、職業作家になる道を選んだ夏目漱石の最初の作品。
※引用元:新潮社

 

明治四十三年,朝日新聞に入社した漱石が職業作家として書いた第一作.我意と虚栄をつらぬくためには全てを犠牲にして悔ゆることを知らぬ女藤尾に超俗の哲学者甲野,道義の人宗近らを配してこのヒロインの自滅の悲劇を絢爛たる文体で描く.漱石は俳句を一句々々連らねていくように文章に苦心したという. (解説・注 桶谷秀昭)
※引用元:岩波書店

 

美しく聡明だが、我が強く、徳義心に欠ける藤尾には、亡き父が決めた許嫁・宗近がいた。しかし藤尾は宗近ではなく、天皇陛下から銀時計を下賜されるほどの俊才で詩人の小野に心を寄せていた。京都の恩師の娘で清楚な小夜子という許嫁がありながら、藤尾に惹かれる小野。藤尾の異母兄・甲野を思う宗近の妹・糸子。複雑に絡む6人の思いが錯綜するなか、小野が出した答えとは……。漱石文学の転換点となる初の悲劇作品。
※引用元:角川文庫

 

秀才の小野さんと、甲野家の藤尾を中心に、甲野さん、宗近君、小夜子、孤堂先生の存在が絡み合い物語は展開していきます。

「虞美人草」に関する豆知識

ここでは、「虞美人草」に出てくるモノなどを解説します。小説を読むにあたって「どういうものか?」のイメージって大事ですよね。

特に古典、近代の小説では今に馴染みのないもの、「なんだかよくわからないもの」がたくさんでてきて困ったものです。より深く「虞美人草」を理解するための手助けに少しでもなれれば良いと思います。

小野さんのステータス、恩賜(おんし)の銀時計

【恩賜(=おんし)】天皇・主君から賜ること。そのたまもの。
【賜る(=たまわ・る)】目上の人からもらう、いただく。
※岩波国語辞典第七版より

 「恩賜の銀時計」とよばれる銀製の懐中時計は、天皇(あるいはその代行)が東京帝国大学の卒業証書授与式に「臨幸」して、優等卒業生に「下賜」した褒賞品です。優等卒業生に授与されたので優等生制度ともよばれ、1899年から1918年まで続きました。

もともとは軍学校に授与され、東京帝国大学をはじめ、京都や九州、東北、北海道の各帝国大学、学習院や商船学校に与えられるようになりました。

東京帝国大学では、卒業生の人数が増えると授与者も増加している傾向がみられます。優等生の選定について全学に共通する規定は現在のところ見つかっていません。首席卒業生であっても優等生とは限らず、成績だけでなく学生の人物評価も選抜基準となっていったようです。授与を辞退できたかどうかは不明です。最終的に東京帝国大学では323人に授与されました。

東京大学文書館が所蔵するのはそのうちのひとつ、1913年に工科大学造兵学科を優等で卒業した阿久津国造氏に下賜されたものです(F0132)。「恩賜」と表記されますが、時計の表面には「御賜」と彫られています。遺族からの寄贈によるもので東京帝国大学の学生に授与された銀時計を今に伝える貴重な一点です。

優等生全員の氏名や所属は、『学士会月報』や『官報』、『卒業証書授与名簿』を調査した中野実の研究により明らかになっています。 参考文献:中野実『東京大学物語 君がまだ若かったころ』吉川弘文館、1999年。

(文書館教務補佐員・小川智瑞恵 )

虞美人草 恩賜の銀時計虞美人草 恩賜の銀時計裏

引用元:東京大学

「虞美人草」では小野さんのステータスの象徴として、しばしば登場します。

四章:
小野さんは考えずに進んで行く。友達は秀才だと云う。教授は有望だと云う。下宿では小野さん小野さんと云う。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計を賜たまわった。

六章:
「卒業して銀時計を御頂きになったから、これから論文で金時計を御取りになるんですよ」
※藤尾

七章:
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う性質たちの好い男でも、あのまま放ほうって置けばそれぎり、どこへどう這入はいってしまうか分らない」
※井上先生

九章:
小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今の己おのれには無益である。

十章:
「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」
※糸子

十七章:
「いや近頃は法科もつまらん。文科と同じこっちゃ、銀時計でなくちゃ通用せん」
「なにえらい。銀時計の頭でなくちゃ、とても出来ん」
※浅井

などなど。上記、新潮文庫版より引用しています。

「虞美人草」の重要な場面、1907年上野「東京勧業博覧会」について

「虞美人草」第十一章に、登場人物達が博覧会に出かけるシーンがあります。

博覧会に出かけた藤尾をはじめとするグループ(甲野欽吾、甲野藤尾、宗近一、宗近糸子)が小野さんをはじめとするグループ(小野清三、井上小夜子、井上孤堂)を、休憩した茶店で目撃するという重要なシーンで、その舞台が、明治40年(1907年)3月20日から7月31日まで東京上野公園で開催された「東京勧業博覧会」。

虞美人草 東京勧業博覧会 夜景

※博覧会のイルミネーション
画像引用元:山星書店 浮世絵

上野公園総面積約17万平方メートルに、公園を第1会場として、不忍池畔を第2会場に、帝室博物館の西を第3会場とした。第1会場に第1号館から第5号館と、美術館、人類館、園芸館などを建て、第2会場の不忍池畔に台湾館、朝鮮館、外国館、機械館、三菱館、ガス館など企業館と各府県の売店が並び、池畔にはウォーターシュートや水族館、世界館などが設けられ人気を呼んだ。このとき不忍池畔に初めて渡月橋が架設され、夜間はイルミネーションの灯が池に映り、文明の象徴とされた。第1会場にも21メートルの空中観覧車が登場し、不思議館、水晶館、自動活動写真館などの娯楽施設がつくられた。この博覧会は明治期の掉尾を飾るにふさわしく、諸外国の出品も多く、政府主催の内国勧業博覧会同様の規模と内容で、入場者も6.802.768人を集めた。

引用元:乃村工藝社

宗近君が大声を上げた「あの橋は人で埋っている」の橋、小野さんが小夜子と先生を連れて半ば強引ンにわたった橋が、「渡月橋」なんですね。

漱石自身も取材のためにたびたび訪れたと言われており、終了直後の8月12日の回の「虞美人草」に登場させているので、かなりリアルタイムに書いていたんですね。すごい!と思ってしまうけど、当時の新聞小説としては時事的な内容を盛り込むのは一般的だったのかな…。

「虞美人草」の感想

僕が初めてこの「虞美人草」を読んだのは、前期三部作(三四郎、それから、門)を読み、後期三部作(彼岸過迄、行人、こころ)を読み、道草、明暗を読んだ後でした。

それが理由かわからないのだけど、「虞美人草」はその後の漱石のエッセンスが色々入っているなーと思ったのが、読了後の第一の印象。

例えば例えば、主人公の小野さん(小野清三)は、どことなく「明暗」の津田のような感じがあると思う。吉川や岡本の手前、延子をいわば打算的に大事にする津田のように、自身の今後の成功のためにも過去の女、小夜子ではなく、財産のある藤尾をなんとか手に入れたいと願う点。ずるく、そしてまた臆病な点も似ているかもしれない。

そして、藤尾の兄甲野欽吾も、哲学者であり気難しく、継母や藤尾に家庭内で疎まれている点が、「行人」の主人公二郎の兄、一郎に通じるものがあると思う。欽吾に対する継母と藤尾の陰口も、「行人」のそれと似通っているような気がする。

継母も、娘の藤尾と結託し甲野欽吾を追い出して・財産を狙おうとするずる賢く回り、謎の女と形容されるあたりがどことなく明暗の吉川夫人のプロトタイプ的な感じがする。もちろん吉川夫人のようになんとなく振り回すのが好き…という点、ある意味無邪気という点は違うと思うのだけど。

等々、同じ作家が書いているわけだしエッセンスはあって当たり前ではあると思うのだけど、なんとなくぼんやりと頭に浮かんだんですよね。「あ、これ~ぽいな…」みたいに。

個人的に好きなところはたくさんあるのだけど、一番はやっぱり第十八章の宗近君が小野さんを来訪する場面。

「此処だよ、小野さん、真面目になるのは。」
「真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。」

一番最初に読んだとき、ここは本当にグサグサ刺さるのを感じながら読みました。「宗近君、あんたほんとにええ奴やな…」と。

最初は肩に力の入った小難しく長い前置きに苦しみましたが、主要人物が東京に集まりだすあたりから物語のテンポがよくなり、どんどん引き込まれていきました。ただ、展開が早すぎる…と感じてしまうところもありました。

小野さん・甲野さん・宗近君・藤尾の人物設定がよく考えられている点も良く、会話のやりとりも印象的で、読み応えがありました。

藤尾の憤死も印象深いです。

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