夏目漱石の『野分』についての記事です。
※こちらの記事もネタバレを含みますので要注意です。
夏目漱石『野分』とはどんな小説?なんて読む?
1907年(明治40年)1月1日に単行本『鶉籠(うずらかご)』を発表後、『ホトトギス』に掲載。単行本としては、1908年(明治41年)9月15日に『草合(くさあわせ)』に、『坑夫』とともに収録され春陽堂より発行されています。
さて、正直なところ、こちらも『二百十日(にひゃくとおか)』同様、僕は最初なんて読むかわかりませんでした…大体見当はつくけど~(やぶん)なのか(のわき、のわけ?)なのか…という(笑)
野分→のわき
さて、読み方もわからなければ、もちろん意味も分からなかった…この『野分(のわき)』の意味はというと…
秋吹く強く荒れる風、特に台風。雅語的→野の草を吹き分ける意。
※岩波国語辞典第七版より
ちなみに雅語(がご)とは、日常的にはあまり使わない風雅な言葉で、主に平安時代の雅文、和歌などに使用されるような言葉らしいです。辞書でひとつの単語を調べるたびに、色々わからない言葉が出てきて、僕みたいな浅はかな知識をもった人間はとても苦労します…。
でも、調べてみるとわかるのだけど『二百十日(にひゃくとおか)』も『野分(のわき)』も共に、台風というのが共通のようで、僕の持っている岩波文庫版の帯に、
「漱石が、社会批評の嵐を起こす」
と書いてあるのも、より納得できたような気がします。「嵐」というのもただの誇張された表現ではなく少なくとも関連する意味があったのだなーと。
さて、肝心の内容のほうはどうかというと、『二百十日』同様、社会批判を軸にした物語です。ただ、『二百十日』は短編であったのに対し、こちらの『野分』は中編小説になっています。
ほぼほぼ圭さんと碌さんとの会話文で成り立っていた『二百十日』をさらに発展させたような内容になっていて、少し悟ったようなところのある文学者白井道也先生と、現実と理想に苦しみ自分の殻に閉じこもろうとする高柳君、そしてあくまで現実を受け止め生きていこうとする友人の中野君を中心に物語は展開します。
ちなみに夏目漱石は『野分』を執筆するにあたって、髙浜虚子に以下のような文の手紙を送っていたことからもけっこう気合が入っていたのだと思います。
近々、「現代の青年に告ぐ」という文章をかくか又はその主意を小説にしたいと思います。
※(明治39年10月17日 髙浜虚子宛の手紙の抜粋)
『野分』のあらすじ
数種類の参考文献に記載のあらすじを紹介します。
圭さんと碌さんの軽妙な会話を軸に,夏目漱石(1917―66)の阿蘇山旅行に基づき書かれた「二百十日」.若き二人の文学士と文筆に生きる男が,流動する社会に三人三様に向き合う姿を多面的に切り取った「野分」.先鋭な社会批評を中軸に据えた,長篇作家漱石誕生への橋渡しとなる二篇.改版(解説=小宮豊隆・出原隆俊)
引用元:岩波書店
俗な世相を痛烈に批判し、非人情の世界から人情の世界への転機を示す「二百十日」、その思想をさらに深く発展させた「野分」を収録。
引用元:新潮社
文学者・白井道也は大学を出て地方の中学教師をしていたが、金や地位を求めて生きる地元の有力者たちとことごとく衝突し、いまは東京に戻って雑誌記者の仕事で糊をしのぎながら「人格論」を執筆している。
苦学生活の中で文学者を目指す高柳周作は、裕福な家庭に生まれた中野輝一という友からそんな白井道也の噂を聞く。実は高柳は中学時代、白井の排斥運動に力を貸した生徒の一人だった。罪の意識を感じた高柳は、その動向を調べるために白井が雑誌に寄稿した檄文を読んで、彼の思想に心酔する。そして白井に教えを請うとともに、罪の代償を支払うことを決意する。
<参考文献:エンサイクロペディア夏目漱石より>
『エンサイクロペディア夏目漱石』はさておき、なかなか扱いが小さい『野分』ですね。実際、漱石の作品の中でも1位、2位を争うほど存在感が薄いと言えるかもしれません。
『野分』に出てくる主な登場人物
・白井道也(しらいどうや)元英語教師、文学者
『野分』の中心人物。地方のお偉いさんと合わなく、転々とする。
・高柳周作(たかやなぎしゅうさく)
中野君の親友で、白井道也の元教え子。世の中に不満を抱いている。
・中野輝一(なかのきいち)
高柳君の親友、お金持ちで趣味の良い秀才。
『野分』に関する豆知識
『野分』に出てくるもので、少しは理解が深まりそうな?豆知識を紹介しています。
第二章に出てくる「日比谷公園」について
午に逼る秋の日は、頂く帽を透して頭蓋骨のなかさえ朗かならしめたかの感がある。公園のロハ台はそのロハ台たるの故を以って悉くロハ的に占領されてしまった。高柳君は、どこぞに空いた所はあるまいかと、さっきから丁度三度日比谷を巡回した。三度巡回して一脚の腰掛も思うように我を迎えないのを発見した時、重そうな足を正門のかたへ向けた。すると反対の方から同年輩の青年が早足に這入って来て、やあと声を掛けた。
※岩波文庫版『野分』P103
高柳君と中野君が最初に登場する場面が、東京の「日比谷公園」で、「ロハ台」とは備え付けのベンチのこと。ドイツ留学から戻った本多静六博が設計案をまとめ、日比谷公園は、1903年(明治36年6月1日)に東京の新名所として誕生した。
以下の写真は明治40年の日比谷公園の正門写真なので、ちょうど『野分』の中の日比谷公園も以下のような感じだったのでしょうね。
※画像引用元:ジャパンアーカイブス
ちなみに、高柳君と中野君が鮭のフライやビール、ビステキを食べたのは、明治36年創業の西洋料理屋「松本楼」これは今もありますね。
※画像引用元:https://www.tokyo-walk.com/park/hibiyakouen.html
第八章に出てくる「岩崎邸」
岩崎の塀が冷刻に聳えている。あの塀へ頭をぶつけて壊してやろうかと思う。
※岩波文庫版『野分』P215
高柳君が独りぼっちで歩いていて、白井先生と会うシーンに「岩崎邸」が出てきます。
金持ちに嫌悪感を抱く(羨望を抱く?)高柳君からしてみれば、まさに目の敵となるだけあって、「頭をぶつけてこわしたくなる」というのが2回も出てくる。1回は心の中だが、2回目は実際に口にする。なかなか激しいです。
※画像引用元:navitimetravel
岩崎邸は、1896年三菱3代目社長岩崎久彌の邸宅としてに建てられ、湯島天満宮から春日通りをはさんで北側にある。今は国の重要文化財になっていて、洋館・撞球室・和館の3館が残っています。
『野分』に出てくる名言
「昔から何か仕様と思えば大概は一人坊っちになるものです。そんな一人の友達をたよりにする様じゃ何も出来ません。ことによると親類とも仲違になる事が出来て来ます。妻にまで馬鹿にされる事があります。仕舞には下女までからかいます」
※岩波文庫版『野分』P182
間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、ただ正しい道がいいのさ。
※岩波文庫版『野分』P257
ほかにもたくさんあったように思うので、再読した際に追加できたらと思います。
『野分』の個人的な感想
夏目漱石の『野分』を読んだのは、岩波文庫版に同じく収録されている『二百十日』同様、ある程度漱石作品を読んでしばらく経った後です。
同じ社会批判とはいえ『二百十日』の会話形式で淡々と進む感じとは違い、こちらはより発展させた感じで、高柳君の独りぼっちぶりになかなか感じるところがありました。特にP210あたりの梧桐の葉が風で吹き飛ばされてなくなり、「一人坊っちだ」と口にするところあたりとか…とても寂しくなる。
しかし、この高柳君、とにかく自分の苦しい境遇を棚に上げ、不平不満を口にするものだから厄介。理想はあるものの、それに向かって努力しようとせず、あくまで不満に押しつぶされ何もできずにいる。「周りが悪い。自分は一切悪くない。こんな境遇じゃなかったなら」の一点張り。
白井先生のように超然と悟り、我が道を行くこともできず、中野君のように現実を受け入れて現実を楽しむこともできないのがなんとも…という感じです。
とまぁ偉そうに言いましたが、僕自身も、「もっと時間に余裕があったら…」とか「もっと金銭的に余裕があったら…」とか、お金持ちに対して無性に腹を立てていたこともあったし、高柳君みたいなことも今まで生きてきた中で何回口にしてきたかわからない(笑)
ただ客観的に高柳君を眺めると、改めて自分も愚かだったんだな…と感じざるを得ない。(あくまでここは過去形にしたい)
正直なところこの『野分』は、僕にとってあまり印象深い作品ではありませんでしたが、それでもスラスラと感想がでてくることを考えると感じるものは思いのほか大きかったんだと思います。
最後の白井先生の演説はほとんど漱石自身の言葉だと思うし、熱い気持ちが入ったこの作品は、これはこれで貴重な作品なのだと思います。そういえば心象描写、風景描写もなかなかグッとくるものも多かった気がします。
今度読むときは、あまり高柳君に気を取られないように読んだら、また違った面が見えてくるかもしれないです。